私の心は参鶏湯

心に溜まった形のないものを言葉に変換できるように藻掻きます

バタフライ・エフェクト

一匹の蝶の羽ばたきがやがて嵐になるように

 

 

 

  物事には必ず原因がある。

それはあなたにとってとても小さなことかもしれない、しかしそれが誰かの生命を終わらせる可能性がある。

 

  極端な話、あなたが生まれたことが原因でどこかの誰かが死ぬかもしれない。

そんなことを突き詰めていくと何も行動できなくなるし、何も言えなくなる。

 

  でもこの『可能性』を無視して生きることはとても愚かに思う。

人はいつだって他人を批判する。政治、経済、見知らぬ他人のツイートまでも。

人にはそれぞれの正義があって、それを基に生きてる。だからこそ衝突するし、批判もする。

 

 

誰かが人を殺せば、犯人は批判されて当然。当たり前のことだと誰もが思ってる。

  では、その殺人の動機が

「何年も苦しめられてきた。私はあいつのせいで精神病になり、職を失い、家族も失った。なのにあいつは笑顔で、幸せそうに生きている。そんなことが許されるはずがない」

もしもこうだったとしたら…犯した罪は変わらないが、確実に刑は軽くなることだろう。

世間も同情するはず。

  しかし、被害者がしたことがSNSで「死ね」と発言しただけだったとしたら。被害者は批判されるべきだろうか。殺されるべき人間だっただろうか。

 

 

 

  これには明確な正解はないように思う。

私たちが日頃目にする物事は、大きく広がる森の中にある一本の木の、その枝の先にある一枚の葉でしかない。

  全体を把握することまではできない、でもだからこそ想像してほしい、いろいろなパターンを想定してほしい。

  あなたの知っている事実は本当に正しいのですか。それが事実だとして、目の前の相手に投げ掛けていいことですか。

 

できればもう少し、あとちょっとだけでも、考えてください。