子供は5円で死ぬ
私が子供の頃、お家でひとりでお人形遊びをしていたら
「友達と遊ばないとダメ」
と言われ、お人形をすべて捨てられた。
言われた通り友達と遊んでいたら
「遊んでばっかいないで勉強しなさい」
と、友達と遊ぶことを禁じられた。
大人ってなんだろうって子供の時ずっと思ってたけど、自分が大人になっていろんなことを知って、いろんな考えに触れると、当時の親や大人の思考がわかってくる。
バカなんです。
その時その瞬間の“安易な最善”を選択しているのです。近くのスーパーで売ってる玉子より少し遠くのスーパーで売ってる玉子の方が5円安いけど時間もないし近くのスーパーで買うような最善なのです。
その5円高い玉子が大人の最善。
その差額が子供の傷なんです。
大人にとって子供の傷は「大したことない」のです。だって5円だもの。
子供の頃の5円って大きかったと思う。買えない物の方が圧倒的に多いけど、5円って重かった。5円で悩んだ記憶がある。
5円の傷を抱えたまま大人になって
「なんだ5円なんて」
と、軽く流せるようになる。お金持ちになるから。
私も5円の傷はいくらかマシになったと思う。
たぶん。
大人になってからはどうだろう。
扱う金額が大きくなり、すると当然差額も大きくなる。
いつの間にか大損している。
きっと、大人になるまでに沢山の貯金をしてきた人はその差額を埋められるのだと思う。
あの時の5円を忘れ、別の5円で埋めて、新しい貯金箱に新しいお金を入れていったのだ。
私は1円も貯金出来ぬまま大人になってしまった。
もう取り返せない5円を、必死に、叫びながら探すことだけに時間を使ってしまった。
今更なにかしてほしいわけでもないし、なにされてもあの時の5円は戻らない。
もう色も形も重さも匂いもすべて忘れてしまった5円。
すべての大人が持つ「そんなこと」で簡単に人は死ぬ。
人は自分の経験則でしか語れない。勝利の方程式も逆境から這い上がる方法も。
自分が構築したロジックが正しいと思い上がる生き物。
偉そうに語ってる私もきっと大差ないんだと思う。
「努力が足りない」
「おまえのせいだ」
「もっと頑張れ」
こういう言葉を吐くのは簡単だよね。なにも考えなくていいし責任もないし。
本人は無意識に吐いてるし、しかも正論だし。
こういう人ほど有名人の言ってることが正しいと思ってしまうんだよね。
昔の偉い人のありがたいお言葉とか好んで使うよね。あーほらムカつく顔してる。
弱者と強者の線引きをしっかりして、弱者は強者に従うべきだと思ってるから、こちらが何を言っても弱者の戯言。届きはしない。
他人の痛みに鈍感になること、視野が狭くなり新しい意見を受け入れられなくなること、傲慢で怠慢、しかしそれに気付かずにいることが大人になるということなのかもしれないね。
私はどんなに損をしようと、どんなに馬鹿にされようと、どんなに傷つこうとも、“大人”にはならない。
私が大人になってしまったら、あの時の5円を次の世代へ継承することになる。
私は5円の痛みを知る者として、今も忘れられぬ愚者として、これから細々と貯金をしていかなければならない。
もっともっと書きたいことはあるけれど、私の心の整理としては上出来かなと。
相変わらずまとまりはないけども。
子供は案外、5円で死ぬ。