私の心は参鶏湯

心に溜まった形のないものを言葉に変換できるように藻掻きます

ブログ開設の理由

こんなとこまでよくおいでなさった。
なにもないがゆっくりしていってくだせぇ。

どういう書き出しをしていいかわからず、こんなくだらない冒頭になってしまい申し訳ない。
ここでは、自分の心に溜まったよくわからない気持ちをできるだけ言葉にして吐き出していこうと思う。

約2年Twitterをしていて、そこで吐き出すことばかりだったんだけど、TLの雰囲気や流れを壊すことなく自分の今のナウな感情を吐き出すにはこういう形式がいいんだと、やっと辿り着いた。

昔からこういったリアルな文章を書くのはすごく苦手で、読書感想文はただの説明文になってしまったり、そこに適した言葉を知らなくて曖昧な表現や幼稚な文章になってしまって、書くのを諦めていた。
ここでも同じだとは思うけど、できるだけ形にして自分を整理できるようにしていく。




さて、なにから話せばいいか…まずはタイトルかな。
『私の心は参鶏湯』
ウケを狙ってスベった感が否めない。
でもこれにはちゃんとした理由があるから諦めないで(真矢○き)

私は参鶏湯が好き。
いやこれだけじゃないよ、もう少し我慢して。

お店に参鶏湯があれば必ず注文するし、自分でも作ったりする。
でも実際、私は参鶏湯を美味しいと思ったことがない。だってアレ、ただのお湯に入った鶏だもん。
もっと美味しく調理された鶏がいっぱいあって、今も新しい味付けはどんどん生まれてると思う。
参鶏湯も現代の人向けに味が変化していってるとは思うけど、それでも料理名を裏切ることは絶対にできないだろうから限界がある。

じゃあなぜ私は参鶏湯が好きなのか…
それは、なんとなく。

いやココからだから、いまいいとこだから。

私は子供の頃から、疑問に思ったことは究極まで探りたい性分で、疑問をそのままにしているとイライラしてしまう。
参鶏湯は不思議でしょうがない。
なんであんなお湯煮込みが人気なの?
どうしてずっと歴史に残り続けているの?

私には理解できない。でもそれを理解したい。
だから美味しさがわかるまで食べ続けようと思ってる。



さぁ、ようやく本題に入りますよ。お待たせしましたね。もう誰もいないかもね。


私は自分の心が理解できない。
なんでそういう考えに至ったのか、どうしてそんな行動をしたのか。全く理解できないことが多々ある。
こうした方が効率がいいし、それが世間一般で言うところの普通だと解ってたりしても、それができない。
具体的に言うと、仕事や人間関係で納得のいかないことがあると全部がどうでもよくなって投げ出してしまう。
人間として未熟なだけ、甘えなのだと自分を叱責しても、どうにも制御できない。
それが原因で仕事を突然辞めたり、友達を何人も失ってきた。
そんな自分が理解できない。

でも自分とは死ぬまで付き合っていかなくちゃならないから、やっぱり理解はしてあげたい。
薄い味付けでずっと存在している理由を知りたい。
私は私自身を食べ続けなきゃいけない。
そうすることでしか味を知ることはできないから。

だから、私の心は……心だけじゃないかもしれない。
私という存在自体が、私にとっては参鶏湯なんだ。



まとまらない文章を最後まで読んでくれる方がいるかわからないけど、もし読んでくれたのなら、最大級のありがとう。おっぱい揉んでいいよ。

あと、参鶏湯好きな人ごめんなさい。


参鶏湯、いいよね。